写真で見る国鉄・JR神中線

架鉄往来

このページの画像は全て生成AI(Flow)によるもので、架空鉄道としての神中線を視覚的に補強するものです。


右は神中線E335系の厚木行き。左は相模線209系3500番台橋本行き。2025年5月。厚木~相模国分/上今泉。


その50年前。神中線のクモハ40は臺頭支区の増結用で、回送中。相模線のキハ17は茅ケ崎行き。1976年5月。厚木~相模国分/上今泉。


その更に20年前。神中線を行くのは線内ローカル、Wルーフの11000とシングルルーフの16400の厚木行き。相模線を上るC11牽引の客車列車は団臨らしく、詳細は不明。1957年11月。厚木~相模国分/上今泉。右奥に小田急小田原線の架線柱が見えている。


横浜駅神中3番に停車するE335系。2025年7月(許可を得て撮影)。


神中線のE335。三ツ境~鶴ヶ峰。2025年7月。


103系の時代。神奈川の電化路線ではお馴染みの混色編成。ウグイス色は横浜線でも使用している為、横浜線、神中線双方の前頭部に誤乗防止表示器が取り付けられていた。1976年9月。大和~瀬谷。


神中線の終点、中新田河原口。厚木駅はこの画像の後方にあり、中新田河原口はあくまでも小田急乗り換えの為に厚木駅構内に設置された仮乗降場の扱い。神中線の行先表示は「厚木」だったので、迷う乗客が多かった。1980年、年の瀬の冷たい青空。


同じ1980年3月の厚木駅。旧型国電最後の頃で、この直後のダイヤ改正で神中線からツリカケの轟音は途絶えた。相模線側ではDE10が貨物入替中。肩からテープレコーダーを提げている男性に注目。SONYからウォークマンが発売されて1年経っているが、高くて手が出せない人はテレコで音楽を聴いていた。それは当時中3で音鉄を始めたばかりの私の姿でもある。


神中線の沿線風景に欠かせない要素の一つが厚木基地である。2025年4月。臺頭~大塚本町。


その60年前。旧型国電全盛期の時代で、73系の5連に臺頭支区の40が併結されている。1965年6月。臺頭~柏ヶ谷。


旧型国電の時代。臺頭で休むクモハ40。神中線の基本編成は東神奈川からやって来るが、付属編成や末端部の小運転は臺頭の受け持ちだった。この体制は103系化が完了する1980年まで続く。背景の廃工場は、戦時中戦闘機の装備品を製造していた。後に日産座間工場の一部となる。1965年9月。


旧型国電の時代。その頃沿線では各地で宅地開発が始まっていた。私鉄ではないので大手デベロッパーは関与せず、小規模な開発がパッチワーク的に広がり始めていた。1965年9月。柏ヶ谷~相模国分。


旧型国電の時代。夕闇に沈む谷間の駅に、テールライトの赤色を遺して電車は出て行く。1972年3月。鶴ヶ峰。


更に古い時代。後にこの渓間から丘のてっぺんまで建売住宅や低層マンションで埋まり、ローカル線然としたこの路線が重要通勤路線に変貌しようとは、この時点で誰も思わなかっただろう。1958年5月。西谷~新川島。


更に前。後に神中線は旧30や31と言った東京圏の17m級国電の再就職先となった。だがこの時点では山手線ですら17m級の天下だった。地方線には勿体ない程の待遇だったのである。神中線が重要路線であった証左。1952年7月。柏ヶ谷~相模国分。


臺頭~大上間を行くスマートな11400。戦後暫くしても、この辺りはキツネかタヌキが出て来るような閑散地だった。1953年3月。

本稿了。2026・8・30。

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