架空鉄道・国鉄/JR神中線の車両0

架鉄往来

旧寂景院において、戦時統合で相模鉄道(現相模線)と同時に神中鉄道(現相模鉄道)が国鉄に編入されていたら、と言うプロットで、主に車両史にスポットを当てた企画だった。2003年頃スタートし、最終アップデートはTwitter上で2021年だった。従って本稿での時制は2021年となる。本稿の文章は2017年にリライトしたものをそのままUPして、必要があればその後の考察を付記する。

以前「架空鉄道版@したらば」の中で提示された「妄想の糸口」。
もしも相模線と同時に相鉄(当時神中鉄道)が買収され、国鉄神中線になっていたら。地元ネタであり、旧国ネタで楽しめると思い、車両だけ作画して見ました。

ここでは各時代の車両についてご覧頂く前に、その前提をご説明しておきます。

1944年、戦時輸送体制の要請から、時の国鉄は神奈川県央を走る二つの私鉄線、相模鉄道と神中鉄道を買収しました。両線は沿線に多くの軍事施設や軍需工場を持ち、その輸送に齟齬を来さない為と、更にセメントの原料となる川砂利の輸送の為、重要線中の重要線と言えましょう。この買収にはもう一つの重要な理由がありました。それは横浜-茅ヶ崎-小田原間で不通となった時、そのバイパス線として利用する為です。
こうして両線はそれぞれ「国鉄相模線」「国鉄神中線」となります。

平塚にあった日産車体工場では戦時中は戦闘機のエンジンを製造していました。そこから貨車に積み込んで相模線を北上し、神中線大塚付近にあった後の日産座間工場で生産された装備品を引出し、厚木飛行場へ送り込んで組み立てる。そうした流れがあったと言う事は国有化されて当然とも考えられます。

起点の横浜は神中鉄道時代の施設を改良して「神中1~2番ホーム」と称し、在来の各線と区別しました。これは今でも変わりません。電車区は臺頭(後の相模大塚)(東タト)に配置。

終点の説明が最も厄介事です。神中鉄道開業時の終点は現在のJR東日本厚木支店のある所で、ここで両線は接続していました。後に小田急線が河原口駅(現厚木)を開業するや、先発の相模・神中鉄道は乗り換えの便を図る為、小田急線と交わる辺りに「中新田河原口」を開設しました。
国鉄の厚木と中新田河原口は距離にして200メートルも離れていないのですが、戦時特例で「中新田河原口駅ハ厚木駅構内ト見做シ仮乗降場トシテ此レヲ取扱フ」、中新田で乗車した旅客が200メートル先の厚木で降りる事は普通考えられないからこうした特例が認められたのでしょう。
この異常な「二重終着駅」構造は、20メートル級電車の6連化が開始された昭和40年まで存続しました。所が電車の側・正面サボの標記は終始一貫して「厚木」であった為、慣れない人かなりまごついたと聞いています。


現在の姿(2020年代~)

205系による現代化(1990年代~)

165系の成田臨(1992年)

103系化と混色編成(1970年代~)

ミナトのハチロクと準急(1960年)

63型電車の繁栄(1960年代~)

17m級国電の繁栄(1950年代~)

社型・木造国電の時代(~1950年代)

付記・臺頭の例のアレ

本稿了、2016・1・30

Comments

Copied title and URL