只野藩元禄猫合戦

口上

この話は旧寂景院になかったもので、最近Twitterで上げていた連続AI画像小説の焼き直しです。元々はトミーテックの猫屋線を入手し、それを自己流にまとめ上げる過程で出て来た「猫屋敷線」と言う名称が独り歩きした結果、その舞台として山陽地方の小藩只野藩と猫好きな武士が絡んだ小品に仕立てたものです。


元禄時代、山陽地方の久富国、只野藩は一万三千石余りの小藩ながら内証は豊かだった。特産の藺草を藩専売としており、久富表と言えば西日本の寺社や大名が競って買い付ける程の人気があったからだ。

所が元禄八年頃から、領内で鼠が大発生し、藺草の畑を寝床として根本を食い荒らす為、生産量は半分以下に落ち込んでしまった。藩士を勢子として鐘や太鼓を持たせて追い払ったり、猫をけしかけたりしたが、鼠はすぐに騒音に慣れるし、数が多く栄養が行き届いた鼠に猫も恐れをなす有様だった。

藺草畑で運動会に興じる鼠。


只野藩の居城、野玉城の一室。

「武藤、勘定方としてその方の存念を聴きたい。どうじゃ、今年こそ藺草の収穫は見込めそうか」
「殿、残念ながら藺草の収穫予想は例年の三割に届きませぬ」
「駄目か」
「御金蔵の金子も底を突いて参りました。このままでは再来年には空になましょう」
「困ったの、二条城修繕のお手伝いは来年の事じゃ。金子は米会所にて借用も出来ようが…」
「恐れながら藺草がこの有様では…」
「返済のあても外れるのう…そうじゃ武藤、造作を掛けるがニャゴ衛門をこれへ呼んでくれぬか」
「ニャゴ…作事方の珠野直右衛門殿ですか」
「そうじゃニャゴじゃ。普通の猫が恐れをなす程の鼠、ニャゴなれば何か良い思案があるやも知れぬ」
「畏まりました」

藩主の京極淡路守照宜は大いに弱っていた。藺草が鼠にやられている以上、藩の現金収入は途絶えてしまう。平時なら金策を弄して何とでも出来ようが、折悪しく公儀からお手伝いを命ぜられていて、それを無視する事が出来ない。
作事方筆頭の珠野直右衛門は仕事は誤らない男だが、目立たず出世も覚束ないと家中で評判であった。昼行燈でうだつの上がらぬヤツなのである。そして代々の猫好きで、その拝領屋敷は猫だらけであり、何時しか珠野の猫屋敷と評判を取っていた。その珠野を珍しくも殿が直々に呼び出している。猫と付き合いが長いから、何か良いアイデアがあるかも知れない。珠野と何となく反りの合わない照宜は、実際そこまで追い詰められていた。


「御召により、珠野直右衛門参上仕りました」
「おお、ニャゴ衛門か。よう参った。聞いておろうが鼠の一件じゃ」
「は」
「そなたは普段から猫と暮らしおり、猫については一家言あろう。藺草の畑を荒らす鼠を何とかせねばならぬのじゃ、そなた、何ぞ良い思案はないか」
「…は。実はそれがし、先年の鼠発生以来、思案を働かせて参った事がござりますれば…恐れながら…」
「おう、おうおう。何ぞ存念があるか、遠慮のう聞かせくれい」

珠野は殿の前に、抱えて来た帳面を広げた。

「猫は鼠を獲りまする」
「当たり前じゃ、何もそなたに聞かずとも知っておる」
「それが中々当たり前ではござりませぬ。殿、この絵図面をご覧下さりませ」

「一匹の母猫は、年に二~三度仔を産みまする。一度の出産で三~四匹産みまするが、その全てが順当に育つ訳ではござりませぬ、中の一匹は並外れて丈夫で生きる力が強うござります。これを上と致し、中の二匹はこれは並にて、残る下の一匹は産れながら虚弱にして大概育たずに死んでしまいまする」
「不憫な事じゃの」
「御意、これが野生でござりまする故。それがし今まで観察を続けましたる所、この生きる力とは餌を獲る力、気構えに比例致しまする。強力に産れついた子猫は、また鼠や鳥を獲る力に長けておるものにござります。こうした上の猫は、畢竟我から求めて餌を捕らえに参りまする。中の猫は自ら動こうとはせず、目の前を鼠が通り掛かった時だけこれを獲り、下の猫はいたずらに鼠を恐れ逃げ回るものにござります。餌を求め物狂ったかの如く鼠を狩る気構えは、殊に雌に強うござります」
「女猫の方が働きが良いと申すか」
「は。雌は仔を産み育てねばならぬ故と思われまする」
「それは分かったが、それが鼠を退治る事と何の関係がある」

「この強き子猫を育て、更に別の親より産れた強き子猫と娶せ、更にその夫婦が設けた仔の内、上の子猫を選び出してまた他の上の子猫と娶せまする。数代これを続ける事で、持って生まれた鼠を捕らえる気構えに加えて、狩りに秀でし親の薫陶があって、より優れた狩りを致す猫が産まれましょう。また実子に非ずとも、優れた親の許へ優れた仔を養子に出さば」
「なるほどのう、剣豪の血筋と同じ事じゃな」
「御意にござります。例えますれば尾張柳生の御一門と同じ事にござります。こうして数代後に産まれた優秀な子猫に特別の修行を施し、謂わば猫の剣豪を育て上げ、鼠めらを追い払うと言う所存。この猫の剣豪をそれがしは『イクサ猫』と称しておりまする」

「なるほど、面白い謀であるな。イクサに藺草を掛けて『イクサ猫』とはの。左様であるか、猫も人と変わらず、性質が違うものであると見えるな。して、その『イクサ猫』の軍勢を調えるにどれ位の期日を要する見込みじゃ」
「先ず以て二年は必要かと存じまする」
「それはまた悠長な事じゃな、そこを一年にならぬか」
「少なくとも三度の出産を経た上で、選抜した子猫に厳しき鍛錬を施さねばなりませぬ故、二年は御猶予を願いたき次第にて。鼠駆除が始まれば、僅々三月で御領内から鼠は一掃されましょう」

「うむ、二年か、二年じゃな。相分かった、この一件は当家の浮沈が掛かっておる。久州京極家の命運を全てそなたに預ける故、何分齟齬の無きよう計らってくれい」
「有難き幸せ、この珠野、一命に替えましても」
「一つ糺したき儀がある。そなたの申す上の子猫は良いとして、選に余った中の猫、下の猫は如何致す所存じゃ。公方様の例の法がある故、猫と雖も粗略な扱いは出来ぬであろう」

生類憐みの令の事である。例えば毒薬を用いて人間が鼠を駆除すれば重罪に当るのだが、猫が鼠を捕らえるのであれば誰も罪に問われる事はない。珠野のアイデアはそこまで見越した周到な謀であったのだ。

「御意。そうした働きの悪しき子猫は寝てばかりいるので当家では『寝ん猫』と称しておりまするが、これは当家にて育み致す所存にござりまする。恐れながら手前の妻女も子猫まみれになれると、今からそれを楽しみに致して居るそうにて」
「何ともえらい内助の功もあったものじゃな」


この日、野玉城の一郭で語られた珠野の話は、実は大変な事だった。元禄十年、1697年のこの時点で、猫と付き合いの長い珠野は遺伝の規則性に気が付いている。グレゴール・メンデルが遺伝の法則を発表したのが幕末の慶応元年、1865年の事であったが、それに先立つこと140年前に、日本の地方領主の一役人によって発見されていた事を意味していた。


珠野は早速「イクサ猫」計画を推し進めた。先ず餌の量を全体に減らす事で、屋敷に何となく居ついている猫を一定程度飢えさせ、近隣の鼠を獲って喰う事を覚えさせた。その上で最近産れた子猫をよく観察し、特に敏捷で鼠を良く取る猫を選別し、家臣の中で豪傑並ぶ者なしと言われた御家田寅之介の家に隔離した。そうして優秀な猫は御家田の家で更に繁殖させ、選別し、精鋭イクサ猫部隊が出来上がって来たのは翌元禄十一年の事であった。

珠野屋敷では毎朝家臣達が道場で剣術の稽古をするのが仕来りだった。珠野は一計を案じ、竹刀木剣を振るう家臣の帯に紐を結び付け、その先に屋敷の女性たちが作り出した木目込みの小さい鼠の玩具と鈴を提げさせた。こうする事で家臣も鍛えられるし子猫の鍛錬にもなる。激しい稽古の動きに尻尾を踏まれるような間の抜けた子猫はここにはいなかった。そうした「並」や「下」の子猫は赤ん坊の内に珠野屋敷へ戻され育てられ、やがて家じゅうに寝そべって特に何もしなかった。奥方の周りにはそうした「寝ん猫」が屯して奥方の邪魔をするのが普通の光景となった。

毎月朔日と十五日の早朝には、家臣共々屋敷から一里ほど離れた蕪池まで遠駆けをする。その際には珠野も家臣たちも鼠の玩具をぶら下げて走る事になった。猫は瞬発力に秀でた動物だが、スタミナはない。一丁も走ると座り込んで一休みしてしまう。そうすると珠野始め一同も一休みになるので、このジョギングの一団が屋敷に帰って来るのは大概昼過ぎになった。

「エッサッサ、エッサッサ、鼠じゃ鼠じゃ戦じゃ戦じゃ」

と言う掛け声「鼠押し」はその後も広く伝わり、現在でも県立野玉高の体育祭では早駆け入場の際にこれを唱える。

「鼠押しっスか、そらあ僕らもやりましたけど、ものすご恥ずかしかったっスわあ」

と野高OBは語った。


こうして二年の歳月を経て入念に鍛錬された「イクサ猫」は、最終段階として鼠害の大きな地域の村役人の家に預けられた。鼠殲滅作戦開始までの僅かな間に、猫に地理的な情報や縄張りを作らせておく為の措置であった。

「これは、珠野様の所の御家来衆でやすか」
「突然に相済まぬ。嘉右衛門殿、聞いておられるだろうが鼠退治の件で、御当家でイクサ猫を一匹お預かり願えぬだろうか。これは殿の御意向であり藩の為、広く領民の為でもある。何卒ご協力願えぬであろうか」
「お手をお上げ下され。お殿様からの預かり物じゃあありますけえ遠慮致します。傷でも付けようものなら、この首は繋がっとりゃあしませんがな」
「左様な事はない。そなたは猫の寝床だけ用意してくれればそれで良いのじゃ。餌はきっと与えてはならぬぞ。腹を減らしておかぬと鼠をとらぬ故な。もしも猫可愛さに餌でも喰わせた事が知れたら、家じゅう撫で斬りに致す故覚悟せよ」
「そら来たがな、やっぱり斬られるんじゃ。これだけえ侍はおえんわ。大体こんなおっとろしい猫を、可愛いなどと思うてたまるもんですかなあ」


こうして「イクサ猫」は領内各所に分散配置され、元禄十二己卯年二月三日(新暦3月4日)に至って一斉に解き放たれた。

その効果は作戦責任者である珠野ですら驚くほどのものだった。あの時珠野は殿の前で「僅々三月で」作戦完了と大見得を切ったが、実際にはそれどころではなく、二十日三十日の間に領内で鼠を見かけなくなった。作戦は大成功だったのである。

すっかり安心して獲物を手に引き揚げる鼠たち。後ろでは闇に潜んだイクサ猫が嫌な嫌な顔をしてニヤリと笑っている。

鼠は本来小心な動物で、どこかで仲間が猫の生贄にされたと知れると、独自の連絡網を通じて瞬く間にコミュニケーション全体に知れ渡る。そして本能の命ずるままに少しでも安全な場所へ避難して、ほとぼりが冷めたらまた戻って悪さをする事を常としている。どころが精鋭「イクサ猫」の行動はその上を行っていた。

深夜、路地で相撲を取って遊ぶ鼠。彼らの悲劇は黒い一陣の風となって出現した。

彼らは気配を消し、鼠の避難経路を塞ぐようにして待ち構え、一網打尽にしてしまう。猫は本来他の猫と共闘しない動物だが、面白いと思う事には進んで首を突っ込む事がある。一匹が退路を遮断し鼠の本隊を切り崩すと、残りの数匹が一斉に襲い掛かる。こうして鼠たちは驚く程の速さで数を減らし、領内から物理的に姿を消した。

その年、鼠がいなくなった藺草畑は平年通りの収穫を上げた。そして畳表職人の工房は活気づき、それらは休む間もなく荷車で運び出された。只野藩はかつての賑わいを取り戻し、そして救われた。


「ニャゴ右衛門、いやさ直右衛門よ、よう致した。まさかここまで巧く行くとは、余も思うてはおらなんだぞ」
「勿体なきお言葉、御家の危急に役立てましたる事、珠野は果報者にござります」
「そなたの日頃の探求の成果じゃ。末代まで誇ってよかろう。此度の事でそなたに加増を考えおる故、沙汰を待つが良いぞ」
「ははあっ」


殊勲の「イクサ猫」たちはどうなったか。作戦終了後はその辺の猫たちと入り混じって普通の生活を送った事だろう。京極家では全部で二十六匹いた「イクサ猫」を士分に取り立て、扶持として「天円座上甕子媛(バステト)」を祀る真舟子神社の境内に接待所を設けて珠野家に命じて給餌させた。流石にその餌代は京極家から支弁された。

殊勲の「イクサ猫」たちは苗字を許され、初めの内こそ城内に「大巌虎太夫」とか「屯倉黒之進」等と言う厳つい名前が張り出されたが、ひと月もすると唯の野良猫と化し、どれが虎太夫やら黒之進やら分からなくなってしまった。それでも真船子神社の境内で一休みする彼らの姿が長く見られたと言う。


珠野家には、年に叺十杯のかつおぶしが加増された。それは猫への褒美であった。
その後珠野直右衛門は健康で長生きしたが、作事奉行への昇進もなく、更なる加増もなかった。およそ出世も富貴も縁のないまま歳を重ね、息子に家督を譲った後も猫に囲まれる日々だった。そんな日が続く事が、珠野には何よりの褒美であった。


現在珠野猫屋敷は野玉郷土資料館の別館として母屋などは当時のまま遺されている。かつては野玉鉄道と言う狭軌鉄道が通っており「猫屋敷」と言う名の駅があった。珠野猫屋敷の裏口からホームに出る事も出来た。鉄道は廃止され、駅の跡は駐車場となっている。

そんな珠野猫屋敷の庭に、片手にかつおぶしを高く掲げた珠野直右衛門の銅像が立っている。その足元にはかつおぶしが気になって仕方がない猫の銅像も寄り添っている。


今でも野玉の土産物店には「直忠」と言う小さな鼠の置物が売られている。これは「イクサ猫」鍛錬の為に直右衛門の奥方たちが手ずから作り上げた小さな鼠の玩具だ。木彫りに木目込みを纏い、中に小さな鈴が入っている。直右衛門の直と、忠義そして鼠の鳴き声を掛けて、これを「なおちゅう」と言う。

本稿了、2026年9月4日

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