東丹沢森林鉄道・線路配置の変遷

架鉄往来

下の図は東丹沢森林鉄道の存続した全期間の線路配置図である。この全ての線路が同時期に存在した訳ではない。


大正初年、中津川水系の電源・水利開発が本格的に始動すると、それまで川狩りによって流送していた宮ケ瀬御料林の木材を鉄道輸送に切り替える事になった。
図はその最初期。大正6年に中津貯木場(後の陸軍飛行場、戦後は工業団地)から宮ケ瀬手前の落合より支流の早戸川へ分け入って行く路線が開業した。
強固な永久路盤の上に頑丈なレールを敷いた一級線仕様で、全区間蒸気機関車によって運行されていた。

バグナルの宮ケ瀬1号機

戦後改修が進み、エアブレーキ化されるまで、東丹沢の運材方法は単台車の乗り下げであった。中津~田代間には逆勾配が存在し、一旦半原まで降りて来た積車はある程度数が纏まると先頭に機関車が付いて中津へ牽引されて行った。
空車引き上げ時には空台車をスタックして運び上げるのが普通であった。


早戸川方面は徐々に奥地の集材拠点まで延伸している。金沢から先は規格が低く、蒸気機関車での空車引き上げは困難であった。大正11年から、米国ダーペンポート社製と、ドイツのコッペル社製ガソリン機関車を導入して、追々に試験を行っている。

一方、中津川本流に沿った、所謂中津川本線は、大正12年4月に宮ケ瀬本村に延長された。宮ケ瀬は東丹沢の森林鉄道網が完成した暁には、運行、整備の中心となるべき場所で、構内は広く、機関庫や修理工場、運輸署等の施設を備えた一大基地へと変貌して行く。
同年9月1日に発生した関東大震災は、山間部のこの地域にも激甚な被害を齎したが、被災地再建に要する木材を迅速に運び出す必要から、南下の工事は優先して進められた。


開発の早かった早戸川線系は、昭和初年代までに奥地の伐採地までの延伸を果たし、以後廃止されるまでほぼこのままの姿で存続する。早戸川線最奥部の伝道以遠は高低差が大きく、木材を組んだスパイラル線(ループ線)を幾重にも繋げて高度を稼いだ。
主だった沢にも臨時の集材支線が入り込み、伐採が終了すると別の沢に資材を転用した。だがここに見る幾らかの臨時線は、伐採後の植林や砂防事業に転用される可能性がある為、後々まで残置されるものがあった。
中津川本線は、唐沢川出合の唐沢事務所まで開業しており、以遠の区間も工事が進捗していた。それまでの木馬道を改修して軌道敷に改変して行くのである。

図はコッペル社製の2号機。東丹沢では、他署に見られたボールドウィン社製蒸気機関車は姿を見せず、コッペルやバグナルを専ら使用していた。


愈々昭和10年代に入ると、伐採は最盛期に入る。それに呼応して森林鉄道も南漸し、昭和13年までには中津川本線はその水路を辿り切って青山停車場、更にそこから150mの高低差をインクラインで克服し、ヤビツ峠間近の護摩屋敷停車場まで開通したのである。
接続する主だった沢筋にも集材支線が入り込み、宮ケ瀬の操車場には木材を満載した運材貨車が、休む間もなくゴトゴトと進入していた。
その一方で、森林鉄道の根元に当たる中津集材場~前落合間は、昭和初年代に着工された県道工事によって廃止を余儀なくされた。木材は落合や宮ケ瀬でトラックに積み替えられて、消費地へ向かうようになったのである。そして剥がされた線路等の資材は、そのまま奥地への延長工事に転用され、また軽軌条を用いた支線のレールを置き換えて機関車の入線を可能にした。
この時点での起点側の廃止は、実に良い事ずくめだった訳である。

画像は昭和10年代、青藤停車場で中津川本線から塩水川線へちょっと入り込んだ地点で撮影された、フォードのピックアップトラックを改造したレールカーである。これは伐採場が奥地へ伸びた為に、昭和10年、運輸署が連絡用として2台購入した。
最初からの軌道車ではなく、元は横浜市で霊柩車として使われていた由である。縁起を担ぐ山の男たちには、勿論その旨は伏せられていた。救急車として使われた事もあり、便乗者がいればこの車を出した。署自慢の一品で、地元の方の話では、何時もツヤツヤと青光りしていたそうである。


戦時体制が世に浸透し、木材の需要は日々高まっていた。それに呼応するかのように軌道は奥地へと延伸した。
急峻な丹沢表尾根の三ノ塔東北斜面の懸崖に桟道を渡し、その他の伐採地でも、通常鉄道を敷く事など思いもよらない絶壁上や、急流奔騰する早瀬の真上を木材で桟道を組み、滝の飛沫を浴びるような場所まで線路は伸びて行った。この時代、そうした名もない集材支線が至る所に建設され、多くは数か月使用したのみで他所の伐採地へと再度建設される。
目次で「全ての線路を網羅出来ていない」と書いたのは正にこの時代を指すのである。

機関車が代燃炉を積み込む前の昭和14年頃まで、便乗希望者は最前の救急車改造レールカーや木造トロッコに乗って奥地へ入って行った。トロッコには椅子は無く、乗客が自分で筵を用意する決まりであった。屋根も窓も無く、雨が降るとアンペラのテントを被せた。酷い客車だが地元民は無料であった。


戦局は末期的で、本土も愈々危うくなって来た昭和20年。軌道の最先端は既に丹沢表尾根の稜線を越え、秦野側へと下降して行く。
昭和19年、廃止されていた前落合~中津間に線路が再び敷設された。トラックの燃料であるガソリンはとうの昔に配給制となり、代燃装置を備えたトラックですら民需用には全く残っていなかった状況であった。従って軌道を伸ばし、最終的に国鉄の駅に乗り入れる事が出来れば、少なくとも動力の問題は解決する。
この再延伸工事は昭和19年から終戦の直前まで続けられ、予定されていた相模線原当麻駅の近くには、桑畑を収用した広大な貯木場が完成していた。相模川を渡る部分には、竹筋コンクリートの橋台だけが完成し、遺棄後は砂利採取のトロッコが再利用していた。
戦後暫くは半原までの線路は残存し、鉄道馬車方式で宮ケ瀬まで旅客営業をしていたとも聞くが記録は残っていない。恐らくヤミだったのかも知れない。同区間の線路は昭和25年頃までに撤去され、奥地の細いレールと交換されて行った。

宮ケ瀬運輸署では専用のトロッコに炉を積んで牽かせる他署の方法を容れず、台枠を後方に延長して炉を機関車に直接搭載する方式を選んだ。こうする事で粘着重量は上がり牽引力は増したが、軸重の増大は避けられず、結果機関車が入線していた支線でも戦時中は人力や畜力で空車を押し上げる区間が増えた


昭和24年に林政統一されると宮ケ瀬運輸署は宮ケ瀬運輸営林署と改組され、護摩屋敷以南の平塚署の路線を引き継いだ事により中津川水系の木材輸送を一手に引き受ける事になった。西丹沢の世附線、水の木線の管理を任されたのもこの時の事であり、両地域での車両の移動はこの後激しくなる。

森林鉄道の町、宮ケ瀬。この頃には中津川本線のみが接続していた。


伐採の中心はヤビツ峠、丹沢表尾根付近に移り、護摩屋敷から伸びる既存の路線に接続して更に多くの集材支線が、秦野側へ下降する形で延伸して行った。
一方、戦争が終わって一般道の改修が始まると、再設置されていた前落合~半原間の線路が撤去された後、時を措かず狭隘な前落合~宮ケ瀬間も廃止され横を走る県道の拡幅用地となった。前落合に臨時の研修所と車庫が新設された。早戸川森林鉄道と中津川森林鉄道の連絡は、ここに絶たれたのである。現在は湖底に眠っている当時の県道の道幅半分は旧の線路敷きなのである。
東丹沢森林鉄道の最盛期は既に終わり、これ以降は縮小と廃止を見るばかりとなろう。

戦後間もなく、従来の箱型トロッコに代って岩崎レール製の客車が6両入線した。正式名ではないが、№70は「大山号」、№71は「丹沢号」と呼ばれていたらしい。№74と75はスクールカーで、孤立集落である札掛や諸戸から宮ケ瀬の中学校へ通う生徒の為であった(小学校は札掛に分校があった)
戦前から稼働していた元霊柩車改造のレールカーは、戦後間もなくこのように大改造された。この頃は人員輸送ではなく、朝一番に定期列車の前を走って、線路状態を確認する「巡察車」として使われていた。


東京から僅か70キロそこそこの地、宮ケ瀬を要として四方の山々に線路を張り巡らして来た東丹沢森林鉄道も、いよいよ店仕舞いの時期が来たようだ。
中央線藤野駅に発し秦野に至る県道の改修は急ピッチで進んでおり、昭和32年の時点では札掛を過ぎて諸戸まで開通していた。勿論トラックが走れる道路であり、伐採された木材をそのまま製材所や製紙工場に運び込める。人件費が次第に高騰して来たこの時期に積み替えの手間が省けるのは結構な事であった。
この2年前には、神奈川中央交通の路線バスが宮ケ瀬~札掛間を開通させており、輸送状況は瞬く間に変化してしまった。
前落合から伸びている早戸川線は既に運行休止状態であり、この翌年林道が開通すると待っていたかのように廃止、撤去されてしまった。

早戸川線の集材拠点、宮ケ瀬金沢。線路は繋がっていたにも関わらず、その末期には前落合の積み替え所ではなく、ここでトラックに積み替えられていた。


宮ケ瀬~唐沢間は唐沢川奥地で伐採が続いている為残存しているが、その全区間が県道との併用区間になっている。
札掛~諸戸間も大半の区間は道路用地に呑み込まれており、軌道運材の中止と共に線路を撤去すればすぐに道路の拡幅に取り掛かれる状況であった。

西丹沢から来た酒井A。この頃には全ての機関車はコンプレッサーとエアタンクを積み込んでいる。エアブレーキ化を境に従来の木製単台車乗り下げを徐々に取りやめ、貫通ブレーキを備えた2台連結の運材貨車によって上り下り共機関車が牽引する形態となった。


県道の整備が進んだ結果、長大だった中津川本線は既に無く、林鉄の町宮ケ瀬から線路が消えて久しい。
急峻な地形の為林道建設が進まない一部の伐採地域には幾らかの支線が残存し、県道脇に中継土場を設けてトラックに積み替えていた。手押し軌道の水沢線を除いて各線には数両の機関車が使われていたが、定期検査は出張整備か、或いはトラックに機関車を載せて宮ケ瀬の整備工場(そこだけ線路は残っていた)に運び込んだ。

山を下る積車。塩水川線弁天沢交換所付近。


その終末は意外な程時間が掛かった。
昭和46年度の堂平地区伐採終了に伴って同年度中には廃止される予定だったが、折も折、8月に発生した台風25号によって風倒木が大量に発生した。塩水川最奥部では946ha、被害総額21億円(当時)の大被害を被っている。その風倒木の搬出に新たに林道を建設する暇は無く、あっても道路建設に取り掛かれるような環境では無かった。
そこで既存の森林鉄道の廃止を1年間先延ばしにして、道路完成までの間中継ぎをさせる事になったのである。こうして塩水川線だけは少しの間命脈を保った。
昭和47年9月まで運行は継続され、その間に作業用林道が線路脇に建設されて行った。9月26日の軌道運材最終日には宮ケ瀬運輸署長、平塚営林署長が現地に駆け付け、ささやかなお別れセレモニーが行われたと言う。

山を下る風倒木搬出列車。塩水川線巌戸付近。

本稿了、2026・2・8

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