
1917年2月10日。
この日、フォッシュ元帥手ずから勲章を授与された彼―ジャン・ポール・ルボー大佐は上機嫌であった。これまでの悔悟と逼塞の生活を払拭し、この上ない名誉を上書きされた事で、自身の存在理由を満天下に顕わせた。これに勝る栄誉は、恐らく他には無かった事であろう。
1914年8月。
フランス陸軍胸甲騎兵第二連隊を率いたルボー大佐は、配下の胸甲騎兵300騎を率いて、独仏国境を越えたドイツ軍第三軍の歩兵縦列に向け、果敢なる突撃を敢行した。彼らは一様に青い上着、赤いズボン、大佐は青いマントを羽織り、武装は象嵌した芸術品のような自前の剣や細身の槍であった。彼ら300騎は突撃する自分たちに酔いしれていた。欧州無敵と呼ばれた仏胸甲騎兵の突撃を止められる者は何物も無い。自分たちですら止める事は出来ない―。
彼らは18世紀の武装、18世紀の戦術で、20世紀の戦争を戦おうとしていた。そして歩兵隊列に突入した後、30分程で壊滅したのである。
誰も彼ら仏軍の怠慢を責める事は出来ない。この時点では独仏両軍共、戦争はせいぜい2~3ヶ月でカタが付くと考えていたからであり、ある程度の損害を出したドイツ軍側にしてもその臨戦態度は18世紀的であった事は否めない。衛生兵は傷ついた仏騎兵を介抱し、ルーテル派プロテスタントの従軍牧師は、カトリック信者かも知れない仏騎兵の遺骸の前で「主の祈り」を称える位の事はした。
命からがら自軍戦線に辿り着いたルボーは騎兵隊長を罷免され、即日スペイン国境の要塞勤務と言う、およそ考えられる限り最大の閑職に回されたのである。
ルボーは「旧第二身分」出身者らしくあれこれ言い訳はしなかったが、一方で前線勤務を切望し毎週のように参謀本部や陸軍省、更にはフォッシュ元帥やペタン元帥個人に宛てて復職を懇願し、閑職を利用してこの戦争に勝つための施策を手紙を書き綴った。
「この戦争の特殊性に最も早く気付いたのは私である。前線が叶わぬなら前線をサポートする勤務でも良い。私を起用すれば、明らかに自軍の有利となるであろう」
「この戦争を決するのは物量である。敵に勝る物量を備える事で敵の攻撃を跳ね返し、退却せしめる事が可能となると愚考する。その為には完全な補給と部隊間の緊密な連絡体制の実現が緊要であり」
「その為に必要と思われる施策を私案し別途添付する。繰り返すがこの戦争の帰趨は一に係って物量であると思惟する」。
大体こう言う内容であった。
開戦から半年も経過すると、頭の堅い首脳部も流石にこの戦争が生半可なものでは無い事を悟っていた。その上に中堅将校の戦死が相次ぎ、少尉の率いる連隊、伍長の率いる中隊が現れる始末であった。そのような流れはルボーに幸いした。彼は1915年月に「セーヌ戦域輸送司令」に任ずる辞令を得た。
この頃には戦線は膠着し、両軍共僅かの隙を見つけては敵の塹壕を突破しようとして、その都度四桁、五桁の数の死傷者を出しながら一進一退を繰り返している。究極的に今勝てないまでも少なく共負けないようにする為には前線への補給は欠く事が出来ない。当初前線への輸送は鉄道会社が請け負っていたが、軍との折衝が悪く(そもそも仏軍内の連絡機構の弱体さは有名であった)前線部隊が必要とする物品が届く時期は、早く見積もっても発注から1ヶ月を要した。1914年10月に発注した15センチ砲弾が1916年になって初めて到着したと言う冗談のような事例すらある。
これを是正する為、前線に近い区間の鉄道を軍が借り上げ、輸送を軍自身が行う事が企画されたのである。その内容は概ねルボーの私案を元に参謀本部が加筆修正したものであったが、左遷中の敗軍の将の意見を真面目に討議する仏軍は眼力を持っていた、等と言う訳ではない。彼らは敵軍にエッフェル塔が望見出来る所まで攻め込まれ、切羽詰っていたのが正直な所であった。短期的にも長期的にも戦局を好転させ得る事が出来れば、例え悪魔とでも手を結ぶ積もりになっていたのである。
増してルボーは元々地道な努力家であり、事に当っては万難を排して断固行う態度が開戦前から評価されていた。フォッシュ元帥はこの難題を彼に一任してみる気になったのは、ある意味当然であったかも知れない。
驚喜したルボーは任地に赴く5月を待たず、公務出張と称してパリに出入りを繰り返した。彼は鉄道輸送について一から学び、その一方で旧知を頼って輸送に明るい部下を集めた。陸軍省を通じて鉄道会社に技術者の徴集を依頼し、更に暇を見ては全国の軍物資集積所を訪ねて備蓄量をチェックした。そしてその足で前線部隊の指揮官と面会しては彼らが真に必要としている物は何か、輸送の問題点は何かを質問して廻った。
1915年5月。パリ郊外に司令部を開設した「セーヌ戦域輸送隊」は、早速事前の設定通り、ルーアン、サン・ドニ、トロワ、ディジョン等に置かれた軍集積所から、前線後方数キロの地点に多数新設された「補給端末駅」の間で軍徴用列車による大規模な輸送作戦が開始した。作戦を展開して行く上で気付いた事柄は参謀本部を通じて徐々に改善されて行く。例えば前線部隊から必要な物資を請求する場合、それまで命令系統を遡って処理されていたのを一旦輸送隊司令部が受領し、カーボンコピーを作って一方を集積所に、もう一方を師団司令部なり旅団司令部なりに回送する方法を編み出した。前線部隊の司令部からすれば請求事実の追認を強制される事になるが、こうする事によって必要な物資は以前に比べれば遥かに迅速に前線に届けられるようになった。
成果は徐々に顕れた。ドイツ皇太子を司令官とする乾坤一擲のベルダン攻略戦は、中盤から次第に連合軍が盛り返し、どうにか敵を撃退する事が出来た。続くマルヌ戦においても、戦果はパッとしなかったが輸送隊の時宜を得た支援の為に前線部隊は思う様奮戦出来た。
一見地味な職務ではあるが、今や前線の諸将兵にとって輸送隊の存在は百万の援軍と見られていたのである。
輸送隊が徴用した機関車は殆ど自国の鉄道で使用されていたもので、それもかなり古い型が多かった。工業製品としてではなく、工芸品として作られたようなそれらの機関車は、見た目は美しいが性能はバラバラで独特の癖があり使いづらい物であった。無論国家存亡の折から文句も言えまいが、ルボーの頭を終始悩ませていた問題であった。
遥々日本から21両の軍用機関車が送られて来たのは、1916年の9月である。
ルボーはこの機関車の到着を非常に喜んだ。先述したように輸送隊に回された機関車はどれも旧式であり、更に効率を良くする為には「性能の均一な」「新品とは行かぬまでも新品同様の」機関車がある程度まとまった輌数必要であると感じていた矢先であった。
早速ルボーは参謀本部に掛け合い、この東洋で作られた機関車をそっくり21輌譲り受ける事に成功した。
使って見ると、東洋人の機関車らしく運転台は狭いが、元々フランス人はそれ程大柄ではない事が幸いして問題とはならなかった。更に劣質炭でも一定の性能を発揮し、滅多な事では故障しない等、日本製とはとても思えない優秀な作品に、ルボーも輸送隊の軍人軍属も大いに満足したのである。
ルボーは一計を案じ、機関車に繋がれた炭水車の側面に大きく「Liege」「Charleroi」「Maubeuge」等と書かせた。これはドイツ軍に占領されているフランスやベルギーの諸都市の名であり、輸送隊や前線の兵の敵愾心を奮起させる効果と同時に、管理のしやすさを狙った施策であった。
ルボーは殊の他この日本の機関車を頼みに思った。力強い太いボイラー、格闘家が身構えたような低く構えたフロントビュー、短く大きな煙突。どれを取ってもルボーと兵士らにとってそれは力の象徴であり、誰にでも「これさえあれば戦争に勝てる」と思わせるに充分な説得力を発散しているように思われてならなかったのである。
1917年初頭。
連合軍司令部にはいささかの希望も湧いて来ない頃であった。
ロシアでは革命が今にも起こりそうな情勢であり、そうなれば単独講和もあり得なくは無い。そうなれば東部戦域に貼りついているドイツ軍が雪崩を打ってフランスへ押し寄せるに違いないだろう。アメリカの参戦も未だ未確定事項であり楽観は許されない。
前線でも厭戦気分は蔓延して久しかった。敵が攻めて来るから撃退はするが、兵の動きは日を追って緩慢になり、脱走兵も現れ始めていると言う。
輸送隊の司令官、ルボー大佐を叙勲しようとする動きはこの頃起こった。前線の兵に対する間断無い補給と言う地味な職務ながら、これを完全に履行して戦線と士気の維持に功績があったと言う理由である。
叙勲の日、冒頭に記した通り、ルボー大佐の心は誇らしさで満たされていた。彼が概略を立案し自身が中心となって進めてきた輸送作戦の成功を、仏全軍によって祝福されている。一時は敗残の将にまでなった彼が完全に名誉を取り戻した日であった。
問題はここから始まる。
ベルサイユでの叙勲式の後、恒例となっていた記者会見が行われた。会場には「ル・モンド」や「タイムズ」等の高級紙から、「パリ・カナイユ」「1ペニーイラストレイテッド」等の大衆紙に至る多数の記者が詰め掛け、上気している大佐に矢継ぎ早に質問を浴びせる。「輸送担当から見た今後の戦局は?」「我が軍にあって敵軍に無いものは?」「産業界の戦争への協力と社会主義の浸透について何かお考えを」「好きな食べ物は何ですか?」
こうした質問に大佐は職分を越えない範囲で率直に語り、その態度は多くの記者を感銘させた。
質問時間の最後に「パリ・カナイユ」の記者が質問した。
「ルボー大佐、大佐の部隊では中国人が作った機関車を使っていると聞いていますが、本当ですか?」
「我が部隊では東洋からやってきた機関車を使っています。しかしそれは中国製ではなく、日本のメーカーの手によるものです」
「栄えある仏陸軍の輸送隊が日本の汽車ですか。随分使いにくそうですが?」
「…私達は勝つためにあらゆる手段を駆使しています。何国の製品であろうとそれが有用であれば使います。増して日本の機関車は優秀です」
この後彼はこう発言した。
「私は騎兵科の出身ですから馬の事なら多少知っている積もりです。戦場にあっては良く訓練され手入れされた軍馬よりも、そう、例えば駄馬やロバの方が役に立つ場面もあります。我が隊の機関車もロバに似て鈍重に見えますが、反面ロバのように忍耐強くもあります」
この発言を面白がった「パリ・カナイユ」紙は翌日の紙面に、
「受勲の輸送隊長、ロバで仏軍を救う!」
とタイトルを打ち、似顔絵のルボー大佐がロバに跨って「アルプス越のナポレオン」よろしく額縁に収まっているイラストが掲載された。
元々大衆紙は、状況の見えていない大衆が得意客であるので、事実を冷静に伝えるよりも寧ろ歪曲化し戯画化する事で売上を伸ばす傾向がある。そう言うマスコミの約束事を知っているルボー大佐や軍首脳部は、この失礼な紙面を見ても「貴族的な態度で」苦笑し無視する事にした。それで市民が楽しめれば良いではないか、と言う事である。
所が話しはこれで終わらなかった。この紙面を見た他の大衆紙が、その翌々日の紙面にこうやったのである。
「某大佐、日本の機関車はロバ並」
「―我等の観測によれば、先日受勲した英雄、輸送隊の某大佐はこのように発言した」
「―私は騎兵科の出身であるから、良く手入れされた軍馬が傷つく姿は、例え戦場であっても見るに忍びない。だがロバは別だ」
無論デマゴーグに過ぎないが、このいい加減な記事は意外にも反響を呼んだ。最初は市民の間で、やがて兵士の間で、更には英国派遣軍の兵にも回し読みされ、様々な感想を与えるに至った。
既に3月初旬、ロシアでは革命が発生し、皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされていた。その間にもロンドンやパリの大衆紙は一連の「ルボー発言」を面白おかしく記事にし、座視出来なくなった連合軍司令部は「市民に向けて」釈明、裏側では一部の大衆紙責任者を「利敵行為」で逮捕投獄し、発禁処分を与えて落着とした。その動きの中で、ルボー大佐は黙々と業務をこなしていたのである。
一旦終息した「ルボー発言」騒ぎが下火になった頃、全く予想もしなかった場所でこの噂話が再燃して連合軍司令部を慌てさせたのは、1917年3月中旬の事である。
日本であった。
既にアメリカ西海岸における移民規制で「人種差別」に関してナイーブになっていた当時の日本人は、海外電の伝える「ルボー発言」にいきり立った。民衆はもとより、産業界や財界が激しく反発したのである。
「―事の真偽はともかくも、斯様な発言を野放しにしておく事は、偏に連合国、就中仏国首脳部に東洋人蔑視の発想が未だ根付いている証左である」
「―広く吾人は彼の国において速やかに責任の所在を明確にする事を強く希求するものである」
「―レイモン・ポアンカレ大統領の釈明と、問題の根源である某大佐の罷免が為さざれば、我国は将来的に連合に仇する結果となるかも知れぬ」
いずれも当時の新聞社説である。注目すべきはどの新聞も、現地特派員や商社駐在員等への取材すらせず、不確かな噂ばかりで騒ぎ立てている点である。
当時東京で「可笑新聞」を主宰していた宮武骸骨は、
「―カネに目が眩んで欧州へ機械売り飛ばす馬鹿。舌禍問題引き起こして今更慌てている馬鹿。半月も前の黄新聞のモッソウ記事見て馬鹿にされたと騒ぐ馬鹿。何とこの世は馬鹿で溢れとるわい」
と書き飛ばしたが、実に彼の目は曇っていなかったと見るべきであろう。
連合国政府はこの思いもよらなかった日本の反発に驚き、かつ慌てた。ロシアが脱落必定となり、アメリカが戦線に赴くまでにはまだ間があるこの時点で、日本は重要な「後方支援」国であった。
それと同時に英仏露は、極東にある諸権益の一時的保護者としての役割を日本に期待していた。開戦当初、青島を攻略した日本に仏露が盛んにラブコールを送っていた時期がある。同盟を結んでいる英国はまだしも、フランスはインドシナ、ロシアは沿海州や外蒙古に散在する領地や権益を、あわよくば日本に護ってもらいたかった。その反面、ロクな守りを置いていないそれらの地域を日本が狙い始めたら大事だと言う事も手伝って、両国は日本に対し頻りに同盟を持ちかけたのである。
その日本が吠えている。これは憂慮すべき問題と言って良かった。
この頃の日本は大戦景気で沸き返ってはいたが、貧富の差は益々激しくなり、諸物価は統制が取れず、庶民の生活苦は増すばかりであった。都市部では労働争議が頻発していた。民衆はちょっとした火がつけば忽ち暴発しそうな状況にあったのである。
東京のフランス大使館には連日壮士に煽動された群集が押しかけ、それを制止した警察官との間で揉み合いになる事もしばしばであった。
連合国、殊にフランスは頭を抱えていた。彼等には何故日本がこれだけ反発するのか理解が出来なかった。反発する理由があるとすればそれは人種差別感であるが、当時のフランスに人種差別的な感情はあったにせよ、他国に比較してそれは非常に強かった訳ではない。その事は日本も知っている筈だ。
もしかしたら、これは余り考えたくない選択肢ではあるが、日本は本気で連合国を裏切り、東アジアを総ざらえしてしまう積もりなのではないか。そんな疑念すら一部では囁かれていた。そうなると日本を押さえ込む力は何処にも無い。
1917年4月。ポアンカレ大統領は日本人の要求を半ば飲み、パリの日本大使に事情の説明と事態の収拾を約束した。
しかし、当のルボー大佐に関しては、当人の真意から逸脱した大衆新聞の憶測記事が元凶であるので、報道側への処罰や規制は既に完了しているが、ルボー大佐は不問に付す事で了解頂きたいと説明し、日本大使もそれを了承した。
その大使からの電報が到着する前日、日本では新聞各社が「ポーツマス条約で日本に無賠償講和を持ちかけたのは、時の仏大統領である」とすっぱ抜き、世論は一挙に沸騰した。
「ルボー大佐を罷免せよ」と言う論調は、恰も苦しい生活の捌け口はそこにしかないと言うかの如く、日本人の口々に上った。勿論フランス側は譲らない。フランスの新聞紙上では事ある毎に、あれは悪質な噂であり、当の大佐自身は人種差別主義者などではない、と幾度も載せて反撃した。
フランス側、特に財界では、ポーツマス云々については公然の秘密に過ぎなかった。元々日本以上に財政が苦しかったロシアが賠償金の支払いを拒否した時点で、パリ証券取引所仲買委員長のヴェルヌイユが日本の財務担当、高橋是清に対して「無賠償の講和」を説き、その代り富裕なパリの金融市場を開放する事で外債の借り換えをする方が、将来的に日本の為になると説き、結果として二億九千万金フランの公債が日本に宛てて発行された件である。尤もこの一件は秘密事項である為に表には出なかったが、「結果的に日本を救ったのはパリの金融市場とデルカッセやルーヴィエ等の先見の明ではないか」と言う思いがフランス側にはあった。
フランス政府はうんざりしていた。ポアンカレが釈明した事で日本は了解したとばかり思っていたら、騒ぎは静まるどころか一層広がっている。軍上層部もルボー大佐については沈黙を守っていた。これ以上同盟国の世論に付き合う義理はないし、重要事は目の前の戦争である。
1917年4月中旬。
憂慮されていた日本の騒擾は尚収まりを見せないながらも、間も無く来援するアメリカ軍をあてに出来るようになって一安心していた連合軍司令部は、一通の電文に触れるや俄に色を失った。
それはメキシコのドイツ大使館に潜入したスパイからの至急報で、内容は驚愕すべきものであった。
「確度AA。ドイツ帝国は本年夏を目途にメキシコと同盟を締結し、アメリカの参戦を側面から牽制する見込み也」
それに継ぐ第二報は、連合軍首脳の最も恐れていた内容であった。それが実現すれば、彼等にとっての悪夢以外の何物でもないと言って良かった。
「確度A。その際、ドイツ帝国はメキシコを仲介として日本帝国と単独講和を締結し、更にソビエト・ロシアを含めた四カ国同盟を視野に入れる事確実也。日本離反の後、山東半島、膠州湾の返還と引き換えに、インドシナ、華南、華中の英仏諸権益を見返りとして与えるとカイゼル確言せる由。本件については既に駐墨ドイツ大使が水面下で日本政府に打診を行っている模様」
日本大使が面会を申し込んでいると言う。ポアンカレは「自分でも判る程の不出来な愛想笑い」で大使を迎えた。
「大統領閣下、我国上下の意見は一致しており、政府枢要が如何に説いたとしても最早聞く耳を持ちません。即ち、ルボー大佐の罷免の事です」
ポアンカレはその人生で最も黒に近い憤りを覚えた、と言う。
仏政府は苦渋の決断をした。アメリカ軍の第一派がフランス戦線の各地に到着し始めた1917年4月30日、彼等は彼等自身の手で「第二のドレフュス」を創作してしまった。残念な事に1917年のフランスには、エミール・ゾラは居なかった。「不用意発言」「利敵行為」の咎でルボーは予備役に編入され1914年の時と同じく一切弁解をしないまま、彼は故郷の屋敷へと帰って行った。
所で、最終的にルボーを追いやった「日独墨露4国同盟」の計画は事実であったのだろうか? 戦後ヒンデンブルグが言明した所では、これはルーデンドルフとカイゼルが共謀してでっち上げた巧妙な神経戦であったのだそうで、当然日本はそのような謀略があった事など知らず、過剰反応を示していたと言うのが実態のようである。但しその本来の目的である「連合国間に離反を産み出す」目的は達せず、成果としては「優秀なフランス士官一名の罷免」だけに留まった事を、戦後オランダに亡命したカイゼルが聞いたら、地団駄踏んで悔しがったであろう。
最後に、1967年、レナール・ルボーなる人物からドイツ連邦鉄道に対して、廃車される「BR47」を一輌買い取りたいと言う申し出があった事を述べて本稿を終える。
本稿了、2026・3・17


Comments